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所詮この世はリア充と非リア

高校の頃、「所詮この世はボケとツッコミ」というタイトルで年に1回全校的に作る文集に投稿した。でもこれはどちらかというと関西にいたからかも知れないw最近はボケとツッコミというよりは、リア充と非リア、の社会構成を見ている気がする。

「リア充」という言葉は、別にリアルが充実しているという意味だけでは使われていない。彼氏・彼女がいるだけで使われてる気がするし、あとは男女複数人の若いわいわいしているグループを見て言ったりもする。基本的に後者の意味の方が私はしっくりくるのだけど、自分がいったい何を見て「リア充」「非リア」と分類しているのかどうかを考えてみた。

 

私は、「リア充」は外面重視、「非リア」は内面重視だと思っている。

外面というのは、別に見てくれのことだけではない(もちろん見てくれも多少含むけれど)。リア充は、人に見せるための自分の考え方を大事にしていたり、他人をいじったりするくだらない(いい意味のくだらない、です)時間を大事にしていたりすると思う。飲み会は大勢の方がすき。

対して非リアは他人をいじるためのテンプレートを連呼するよりは、自分が読んで来た漫画の感想を述べたり、人の仕事の内容を根掘り葉掘り聞いたりする。飲み会は人数が少なく、お気に入りの人とゆっくりしゃべるのがすき。

コミュニケーション能力は垂直的な関係を持っている概念で、リア充でコミュ力が高い人も入れば、リア充でコミュ力が低い人もいるし、非リアでもそうだと思う。リア充でコミュ力が低い人というのは、すぐに人を試すような質問をしたり、自分の話ばかりな人にそう思うときがある。非リアでコミュ力が高い人というのは、漫画やコスプレでコミュニティを作ったり、Twitterでマメにリプライを返していたりする人を見ると思う。コミュ力は、リア充と非リアの、自分の見せ方・相手の知り方としての外面・内面の切り分けではなくて、他人に興味があるか、ないか、だと思う。例えば、非リアでも自分がやったことないゲームの話を興味もって聞く人に、コミュ力がないなんてまったく思えない。あと、コミュ力は持って生まれた(または幼少〜思春期に作られた)その「興味」で高いか低いか最初の出だしは決まるけれど、社会で生きる上で、ある程度理性でカバーできる部分でもあると思う。

 

話が逸れたけど、リア充と非リア、、もちろん理性があれば会えばしゃべれるし、リア充でも手広いリア充は非リアが好む小説やゲームに手を伸ばしている人もいると思う。けど、やっぱり根っこが違う。同じものをやっていても、違和感がある。同じものの感想を述べ合ってても、違和感がある。リア充は「相手がこのゲームが好きだから話を聞くし、自分も乗る」けど、非リアは「自分がこのゲーム好きだから話を聞くし、自分も話す」。リア充は相手と話している今この時間に価値を見いだしていて、満足しているし、非リアはリア充の話している内容で自分も思考を巡らせて、意味のある話をしていると自分が感じているから、満足している。リア充は帰ってFacebookに自分の交友関係をアピールしたり、知り合いの知り合いと出会えたり、おすすめのハウツー本やビジネス書を知ってうきうきする。非リアは帰って今日話した内容に思いを馳せる。

私が思うリア充と非リアってそういうもので、それらを総合して、リア充は外面重視、非リアは内面重視で、どちらもとても素敵な特質だと思う。

 

追記。

混同されがちな「コミュ力」に関して不足している・・と思ったときに、よく非リアがリア充になろうとして失敗している気がする。非リアがリア充になろうとしても、そうそうなれない。この世はリア充と非リアで出来ていて、非リアであることは、まったく悪いことではない。ただの特質なんだ。

リア充と基本的には住む世界が違うことをまず知って、一歩引くととっても楽になると思う。そして、コミュ力がないのは自分の別の性質だということに気づいたら、なお楽になると思う。非リアのままでコミュ力をつけることは可能だと、私は思う。